某メディアのゲーム評に、〈互角〉とあったのには、かなり驚く。
売文(金を取っている)業なら、もっと精確に伝えておくれな。
ドロー、という結果のみからなのか、はたまた、
首位チーム(=強力との刷り込み)とまみえ、一方的にやられもしなかった心象からなのか、ヒドイもんです。
互角だったのは、せいぜいが、
前半の 20~35分あたりの時間帯であって、あとは、こっちのゲーム。
そこを見落とすと、このゲームと、(まだ不足はあるものの)山雅サッカーの深化を評価できません。
まぁ、一方的にヤラレタ(削られた)のは、被ファールの部分。
これは、執拗に喰いつくのを良しとする八戸サッカーの真骨頂その❶、でありましょうが、
僕が予想した、前後半ともに開始15分は圧倒、の課題はクリアした。
前半の入りは、ほぼパーフェクト。
相手の蹴り込みサッカーの上前を撥ねるような、ボールの蹴り上げを織り込みながらのスタート。
こういうのは、明らかにスカウティングと研究の痕跡。
そして、後半になったら、ほとんどゲームの流れを握っていた。
実は、そのわけは。八戸サッカーの真骨頂その❷、
ボールを入手したら迅速に前へ、相手に渡れば即戻れ、の徹底のおかげ。
前後に、人と(ロングな) ボールが、敏捷に動く。
つまり、攻撃に迫力を加えるために、前線に4~5人で押し込む、
他方で、相手の攻撃を阻止せんと 4枚が守備を固めるため、
陣形が、4 – 1 – 5のような様相を呈す。
砂時計の、真ん中がギュッと絞られた、あの容器のように。
で、相手ボールホルダーを猛追するので、その陣容は、けっこうバラバラになる。
中盤のひとりの役目は、当夜は、#7が 負っていた。
彼の周囲には、広いスペースが空くので、
ここを、こっちの山本、川上が、いいように使えたから、
チーム全体として、ボールを余裕を持って、機能的に回せたし、
ピッチ幅を広く活かそうという、横方向のパスも有効だった。
(プラス、終盤。八戸は、さすがに疲れたか運動量が落ちた)
ジョニ ミッチェルの〈Both Sides Now〉(青春の光と影 1967年発表、山雅と同じくらい古い!!) じゃあないが、ものごとには両側面があって、
八戸が八戸であることの、正と負(真骨頂の❶と❷)、
それにうまくつけ込めたことになる。
山雅ベンチが、どれほど意識していたかは、知りませんが。
ゲームの握り方におけるこの教訓は、高知、FC大阪、相模原、北Qあたりには活かせそう。
ただし、僕は、
八戸の、攻撃時にガッと枚数をかける考え方と手法こそが、
山雅の今後にとって、貴重な教え、と思う。
そのことについては、レビュウ❷で。
では。