0 – 0 、スコアレスのドローで投了。
もちろん、(結果としての)引き分けは、惜しまれる。
得点の機会は、ずいぶんと、あったのだから。
言ってみれば、
画竜点睛(がりょうてんせい)を欠くゲーム、でしょう。
せっかくの良い仕事になり切るところを、
最後の仕上げがおろそかになってしまった……ということ。
でもね。
ヘビでもなく、ワニでもなく、龍が龍として描かれた画だったところに、
このゲームの真価をみなくてはいけない。
ガイナーレが、素直であって、それほど前後に業欲でないサッカーをすることを差し引いても、
あれだけ、
圧縮した陣形を保ちつつ、
むやみに深追いすることを自重しては連動し、
向こうのボランチとシャドウ&ワントップを、
己の陣形の中に、2層にサンドしてしまうことで、
相手に自由なスペースを与えず。
たとえ、少々緩くなって、小気味良いパスを通された、としても、
ボールの獲り処をハッキリさせる連携で、相手の攻撃の芽を摘んだ。
☞ 前田 陸王は、そういうサッカーをたしかに体現していた、と思います。
つまり、
締めるところと、許すところが、チーム内で共有されていた。
……以上は、決して、守備面の話ではなくて、
こっちの繰り出す攻撃が、互いの距離の遠近が、ほどよく保たれたために、
たとえば、野々村からの縦パスが、村越、菊井にズバズバ通る。
宮部と樋口が、左サイドでこっちの優位を成立させる、そんなことです。
山雅にこれだけのサッカーをやられては、
鳥取からすると、
前半の少しと、60分前後などは、ボールの主人公になれたにせよ、
ゲームの、残りほとんどの時間帯で、
仕掛ける攻撃は、山雅守備陣の裏狙いか、カウンターでしかなかった。
この記事のタイトルを、
こういうゲームができる山雅が観たかった、とするのが、より精確な表現かもしれませんが、
たとえ、
24ゲーム消化しての、やっとこさ辿りついた、ひとつの極みであろうとも、
やはり、琉球戦は、
山雅流を修正する点において、価値があったわけで、
残る14ゲームの、価値判断の基準が明確化した、と考えます。
では。