先日、職場で、ジャガー氏が、
― きのう、スカイパークに行ったら、山雅の大きい旗を振っていてね。
何本くらい?、と訊くと、
― 10本以上かな。旗ってさ、ああやって揃えて振らなきゃいけないの?
そこで、
ゲーム中、局面に合わせて統一して振ると、美しく、観戦熱を煽れることを説明した。
戦いには準備が必要。
で、ゴール裏のトレーニングがあっての臨戦には、おおいに頭が下がります。
こういう僕も、ユニフォーム新調を含め、装具的にはいろいろやっておりますが、
ここでは、むしろ、
捨て去ることの必要について、ひと言。
回帰を渇望するココロ、もういい加減にしたら?、の件。
おそらく、今季も、
我がチームの戦績、戦いぶりが、良く評価される際は、
〈かつての山雅の再来〉といった論調が湧き、
悪しく言われる時は、昔はどうこう、と責められることは、予想される。
が。
❶かつて採用されたスタイルと戦法は、その時その環境下の最善、とみなされたものであって、それが、永遠に山雅の風貌である、とするのは、オカシイ。
結局のところ、そういった議論は、それによって、ある一定の躍進と成功をみた、という結果主義に過ぎない。
他方で。
それらの達成が、1年限りでトップリーグから2度も陥落した事実と、
フェアに天秤にかけて評価されたのを、僕はほとんど知らない。
❷走る、諦めない、という現象は、
その昔からだって、とりたてて特筆すべき、山雅に固有な心身の動きでもなく、
そう為し得なかったシーンは、かつて幾度も観てきたし、
現在のチームが、そこを減じているのか?、などは測定できまい。
要は。
過去への回帰論の根拠は、すべては戦績の出来不出来、これですね。
……勝ち負けという結果はまことに重大にして、チーム関係者の年俸、雇用までを左右するものではありますが、
勝敗によって、自分の中の〈山雅の価値〉が増減するならば、〈♪ どんな時でも~〉と歌うのと、やはり矛盾する。
たとえば、富士山は、いつも同じようにそこに在って、
どう見映るかはまったく、見上げる人の心象にかかっている。
かつて山雅に在ったものが、今の山雅には無い、と数え上げているよりは、
今の山雅が身につけている(つけようとしている)良点を喜んでいるほうが、よっぽどマシ、と思う。
が、そうなるには、ここ10数年間ファン&サポーターをやってる層と、その記憶が消える時なのか?
まさか……。
では。