なぜ知っているのか?

高校生時代からの友人 K君から葉書が届いた。

……台風の後、まだ暑い日が続きます、御変りもなくお元気にお過ごしでしょうか。8月の展覧会は、ご来場いただきありがとうございます…で始まり、

最後を、〈御礼まで〉で終えている。

K君からは、そのひと月ちょっと前に、案内状をもらっていたので、

8月上旬。

僕は、小学3年生をふたり連れて、会場の松本市美術館へ向かった。

展覧会は、2階のスペースでやっていて、入場は〈無料〉。

滞在時間は、十数分程度。

来た痕跡は一切残すつもりもなかったから、記帳はなし。

幸い、(当番で詰めているであろう)主催者らも、入り口にはおらず素通り。

ならば、はて?

どうしてK君は、僕らの来観を知ったのだろう?

(僕と違って)教師一筋のキャリアを通した真面目な彼が、

まさか、たかをくくって、おそらくは来ただろうぐらいで、御礼の葉書を寄こすはずがない。

とにかく、早速、礼状に感謝する葉書をしたためて投函したが、

奥ゆかしい僕のことゆえ、露骨に、何故知ってるの?、とも書けず、遠回しに

形跡も残さずに非礼をいたしました……にとどめた。

ところで。

ジョルジュデ キリコの『不安を抱えるミューズ達』(1950年頃)の絵葉書を使うところなんぞ、気をつかってあって、K君らしい。

ダダイズムや、シュールレアリスムは、たしかに、

絵画(文学も)の、伝統な枠組みを通して味わう鑑賞法に一撃を食らわした。

これも芸術だ、これを味わえ、といった感じの作品が目立ち、

技法や技量は単なる手段であり、作品をとおして表現したのは〈思想〉なんだよ、という態度でしょうね、観ていると。

で。

K君が出品者のひとりであった、あの展覧会の作品。

絵画だと、すべて 100号、つまり、縦横が 1500mm以上の大作ばかり。

これくらい大きなキャンバスに描き込むのは、相当な手腕を要するし、

破綻をしているような作物はなく、要は、手馴れた描き手を感じさせた。

ただし。

僕が、物足りなかったのは、

その題材、その技法で、俺はこれをいいたい、と思える感じが、こっちに伝わって来ないことだった。

きっとそれとは、上述の〈思想〉に近いもの。

なぜ、そこに、半裸の女性を置いたのか?

彼女の存在、肢体を通して、何を言いたいのか?
憂鬱か、それとも、希求か、はたまた、悲嘆か。

こんな観方を、僕はいつの頃からするようになったのか?

なにを求めて、絵画と面と向かうのか?

そこをハッキリさせなくちゃあな。

今後、機会があれば、K君にはチキンと話せるように。

では。