怒りの自由研究。

テーブル上の〈公報まつもと〉を見ながら、

― 今月号(8月)で特集しても意味ないじゃん、とずいぶん御立腹のご様子。

巻頭の、今月の自由研究は『観光』を指して、家人が、

― 夏のシーズンは先月からなのに、今月に掲載するのはもう遅いでしょう。

たしかに、わからなくもない。(事実、家人が読んだのは、8月末に近い頃)

ただし、これほど鋭く反応するのは、

どうやら。

この夏、小学三年生に協力した際の、

〈自由研究〉に投入したエンス―ジアズムの余熱が、いまだ残っているために違いない。

同学年の従弟が教えてくれたところでは、

自由研究には、踏むべき起承転結があって、

❶なぜ、研究しようと思ったのか (テーマ選定の理由、動機)

❷じっさいに調べたこと (調査内容)

❸わかったこと (結果)

❹まとめ (感想など)  ……の流れが定番のようだ。

実際、公報の記事もそれを模するような体裁になっている。

ただ、致命的なのは、

多数の市民に披瀝するほどの濃い内容でなく突っ込みも大甘。

市政の担当者の顔写真をそえてあるが、プライヴァシイを曝す、という意味では好ましくない。

課長級の公務員が、紙面に引っ張り出される必要もある?

市職員の仕事でないし、だいたい、(本心)彼らが望むはずもなかろう。

自由研究……。

でも、自由だから僕はやらない、という選択はゆるされていないようであるから、どこが自由か?、と思うし、

せいぜい、家族の協力や指導はどうぞよろしく自由にやってよ、の自由なんでしょう。

日本の学生は、こうやってでも一律に強要しないと、

自分発でなんらかの世界を掘り下げることをしない、と思っているのか、教員は。

でも、放っておいてほしい、僕は。

では。