13日は、迎え盆。
父母の骨が眠る墓所に、花と線香を手向けに行ってきた。
その寺は、かつては農村だった集落に囲まれた立地。
松本へ移住してきた父が、実家と同じ宗派でと、母の死をきっかけで区画を分けてもらい、墓を建てた。
生涯一サラリーマンを通した父が、購えられたであろう、こじんまりした墓だ。
墓地の中を歩くと、くぼ地に、ただ石をいくつか積み上げた墓が、点々とする(江戸時代以前のものらしい)。
他方。
ここ20年以内で更新したと思わせる、でんと墓誌が付きそう、それはそれは、巨大で豪華なお墓が構えている。
これだけの仕立てだと、かなりの高額な出費に違いないが、
格式ある名家であれば、このような旧い地域では、それなりのモノを建立して保つメンツもあるんだろうな、きっと。
決してヒガミではなくて、
こういった投資を、それこそ、つまらん散財というのではあるまいか(石材屋さんには申し訳ないが)。
石ころを積んだだけの無名な墓地に眠る者と、冥福にどれだけの違いがあるか?
誰もがウンザリしているが、それでも、続けているならわし。
それが、形骸化した残存物と見なされて、簡略、省略されていることだってある。
自分ならヘタに呼んでもらっても困る、という真情に、流行病をきっかけに当然になった、ごくごく内輪だけの、埋葬と告別式なんかが、それ。
あとは。
国家の名においての殺害がちっとも止まぬ世にあって、
勝利によって国威を高揚させるようなオリンピックなど、もう要らん、と思っていて、
千歩譲って、政財政的に無理なく開催可能な2~3の都市の、持ちまわりで結構。
だって、周りに訊いても、熱心に画面を観ていたなんて話はないし、
僕など、女性マラソンの、5分間くらいを、画面をじっと観ていたくらい。
あとは、出勤前の、時計がわり(にもならないが)。
どんな競技も、発端はそうなんだろうが、
アソビから始まった種目が、アソビのままのいでたちで、プレイされるのをなんとなく観ているのだ。
だが、考えてみると、
いつもの街着でやっていてもらったほうが、〈お国のため〉といった義務感、悲壮感もないから、
それが、いちばん健全かも。
では。