たしか、日付けが変わった頃だったか、と思う。
今引き抜いたティッシュペーパーが、最後の1枚だった。
といった、舌打ちしたくなるような場面があらわれると、
その後に、
あの八戸戦は、失点シーンから観始めたのではなくて、
正しくは、
あの失点シーンまで観て寝落ちした、に訂正してもらわないと困る、という注文が舞い込んだ。
さらに言うなら、
念のために、ゲームを、後半開始から 82分まで観返した上で申し上げるが、
あのゴールを〈文字通りワンチャンス〉としてしまっていいのだろうか?
という問題提起があります。
その 37分間をとおして、
山雅が、能動的な崩しをできたのは、52分に、
米原☞菊井☞安藤で創った、マイナス折り返しのシーンのみ。
他方、八戸は、全時間帯において、オリオラ サンデーが起点となって、落ちることなくプレスをかけ続け、
前からのプレスを交わされて 1列進入されても、山雅には、ボランチの前でボールを持たせる、あるいは、サイドバックの前でボール保持することを強いていて、
最悪、クロスが入ったとしても中央を締めている。
ただ、52分のあのしかけだけが、八戸の前プレスをはがせた効果的な崩しだった。
ちなみに、後半、山雅のプレッシングは、絶望的なくらいに効いていない。
行っていいのか、と悩みながら迷っている浅川の姿が、そこにはあった。
是非とも、萬年氏には、同じ時間帯を観返していただきたい。
自分のゴールに向かって背走を強いられたのは、どっちのディフェンス陣であったのか?
サイド並走の、一対一勝負のシーンを作っていたのは、どちらだったのか?
ハメられてボールロストしたのは、どちらだったか?
最後のクオリティに欠けるプレイは、どちらに多く在ったのか?
縦ポンに走ったのは、どちらだったのか?
……これらを、ヴァンラーレ目線に立ってみるべきです。
攻守でゲームをコントロールしていた八戸が、その数分前から、
ちゃくちゃくと最後のクオリティへと詰めて、波状攻撃をした結果の、
なるべくしてなし得たゴールではなかったか。
さらに、収穫として、ひとつの気づきがあります。
それは、負けるべくして負けているな、ということの痛感。
アンチ霜田といったフィルターを排除して観ていても、
あの 37分間には、両者の差が著しく横たわっており、
八戸ファン目線に、かつての山雅をみる視点を重ね合わせると、
いかに八戸がゲームをコントロールしていたのかが、腑に落ちる真夜中。
たまに、無料配信のゲーム後コメントを読みますが、
今回のは、特に違和感が強烈で、
大内、常田コメントと、監督のそれの乖離が大きいことに失望。
先ほど申し上げた、小生の所感と似たことをプレイヤーが発言しているのには少々びっくりですが、
さらに監督が、ゲームをコントロールできていた、と考えていることに二度びっくりで。
チーム内におけるコンセプト浸透が、実地にどうやって落とし込まれているのかが、おおいに気になるところです。
…以上、皮肉めいてしまいましたが、
サッカー批評は、他競技にくらべ、雑多な観方が混在するゆえに、不毛な議論を感情的に戦わすにはうってつけの場にもなりやすい。
しかし、この感想は、決して萬年氏を貶めるものではありませんので、
ご気分を害することの無きように願います。
この私も、一応は、山雅応援の心持ち、使命感だけは持ち合わせていることだけは申し添えます。
……寝苦しく、混沌とした意識の中、
〈袖を引っ張ってくれる者を持つことで救われる〉
そんな言葉が、ブログ主の頭の中をよぎる夢見ではありました。
では。