チームスタイルや采配、
それに対しては、BOOをたれたり、毒も吐くが、
究極は、これも、みんな山雅が好きだから……か。
こういった免罪符めいた論法は、まぁ、聞いてはおくが、
〈好きな山雅〉のその中身が、現在/現実の山雅とズレていると、いきおい、
かつて観た、あの山雅が、論評の〈分母〉になってしまうから、
なんとも辛いことだなぁ……。
と、普段の 4、5倍は密になった北ゴール裏で湧く野次、わめき声の中で、考えておりました。
ひとつ。
長野戦のボール保持率は、長野に傾き(52%)、
4 – 4 – 2で動かすボールに、次々とプレシャーにいく山雅プレイヤーの姿があった。
これは、相手に、ゴールキックを 20回蹴らせた、
つまり、相手ボールでリスタートをさせる、山雅好みの立ち合いの中で、
我慢して、やらせていたことなんだけれども、
― 好きにやらせるな!、との不満の声が湧く。
相手をはがして前進するために、相手をひきつけたり、寄せたりするためのパスを多用すると、
― 後ろに動かすな、前だろ、前!
……責めたくなる気持ちも、わからないではない。
何故ならば、
シュートまでいかずに挫折するパスサッカーは、弱腰にみえる。
けれども、それらは、
所詮、自分の心情の〈窓〉に制約された意見、気持ちのダイレクトな表明だから、
ピッチ上の意図とはかけ離れた、負の声援となり得ることを、すこしは自覚したほうがいい。
ふたつには、
原因と結果(たとえば失点)の、結びつけ。
これは、人の悟性の基本的欲求なんだが、それをかなり短絡的に、粗雑にやってしまったりする。
たとえば、78分の被弾。
プレイの連続性からすると、あれは山本 康裕の挿し込もうとしたパスがカットされたところが、起点。
ただし、ネットが揺れるまでには、数個のハードルを敷くチャンスがあったわけで、こういうジャッジは、綿密に検証する要がある。
ただ、こういう感情が生じるのは、
多く、詳細などが了解されないスタジアムの、2度見できない、一瞬の時間進行の中でのこと。
吟味もされないまま、粗雑、心象に傾いて湧いてくるのが、ある意味、サッカーの宿命なのかも知れない。
ただし、ここで。
分別をわきまえない周囲からの批判が、
チームの仕事を窒息させるかも知れないし、
あるいは、クラブが、それにすり寄ったり、懐柔しようとしたらロクなことにならない危惧を、
それをもって、後半戦に向けての、現在の課題❹とすることで表明しておきます。
19戦して、7勝6分6敗。
これが、相当に踏ん張っての戦績ならば、
チーム及びファン&サポーターは、技量相応の出来だったと自認して、
その技量を増していくしか、道はありますまい。
〈付記〉
昨日、ソネさんに、職場で会った際、彼のご説だと、
長野は、ドローで上等の考え方だったんではないか、10月のホームで叩けばいい、と。
でなけりゃ、今季採ったことのない、4 – 4 – 2を試したりするわけがない、と。
……なるほどね、そういう観方もできますわな。
では。