過日、初夏の陽射しの中で。
玄関わきのヤマボウシにたまたま、スズメバチの巣を見つけたのである。(地上高 2.5mくらいのところ)
子どもの握りこぶし大の、薄褐色のフラスコを、逆さにしたような格好でぶるさがる。
筒状の突起が、巣の下側についていて、これが、蜂たちが出入りする入り口か。
この時季、巣では、女王蜂がひとりで、巣作りと産卵にいそしんでいる。
このまま放置すれば、
数百匹の働き蜂(すべてメス)と、交尾専門の、(全体の10%程度の)オス蜂が棲息する、立派な巣になるだろう。
しかし、
攻撃的なスズメバチと、これほど身近に生活するのは、とても勘弁。
蜂に刺されて死ぬのは、なんとも気が進まない。
そこで、いまのうちにと……、
脚立を隣家から拝借してくると、
巣のついている枝を切り取った。
異常に気付いたか、巣からそそくさと出て来た女王蜂ともども、袋をかぶせて捕獲する。
で、袋の口からジェット式の殺虫スプレーを噴霧して、一気に殺害した。
入り口から巣の中を照らして見ると、1ミリ程度の、小さな卵(白色)が3つ、仕切られた部屋に産みつけてある。
数日中にはふ化するだろうが、もうママからは栄養をもらえず、餓死するしかない。
……このようにして難を逃れた一部始終を、
やって来た小学二年生に、残された巣をみせながら話したら、
自分は、もうこれ以上、そのスズメバチの巣を見るに堪えない、と言う様子をみせる。
この出来事で、ふと、僕に、
〈死〉についての、幼少時の感覚がよみがえる。
この年代では、
死を、生命活動の停止といった現象ではなく、
もっと切実な、まるで世界の終わり、と感じていたということを。
だから、
― 太陽と死はじっと見つめることができない。
by ラ ロシュフコー (1613~1680年)
といったような言葉を、気の効いた言葉として喜ぶのは、
実は、大人になり切れない子どもに似た感性であることがわかる。
死を直視し、それに対処できなけりゃあ、いっちょ前の大人とは言えない。
もちろん、子どもの心で生きることをいやしめるつもりもありません。
では。