記事のタイトルは、表現をかえると、
山雅の不幸、となります。
つまり、今、
チーム (さらにはクラブ)として現在進行の形でやっていること、深めたいこと、それらを、キチンと観てもらえない、
特に、アルウィンだと。
観衆の反応や、ゲーム後の、まったく見当違いの ゴール裏のBOOなどで、その事情が知れるんですが、
多くのファン&サポーターにとっては、
いま、そこに在る自在物としての山雅に、先行する形で、
いつか、どこかで観た山雅が、経験として、サッカーに関する感性を制約してしまっている。
人間認識の在り方としては、それが当たり前でもあるんでしょうけれど、
こと、山雅にとっては、これが、かなり根源的な縛りになっていて、辛い。
そんな限界、雑音などはおかまいなしに、突き進めばいいのですが、
山雅自身が、ファン&サポーターにおもねって、昔日の良きことを引っ張り出してくるから、余計に、物事が紛糾するんです。
さて。
今節ホームに迎える、カターレ富山。
先季は、得失点差6くらいで、同一勝ち点ながら3位で昇格を逃す。
で、今季は、10年目の3部リーグを戦っている。
いにしえをムダに夢見るような気配は、クラブ(またはチーム) からほとんど感じないんですよね。
僕からすれば、ある意味〈健全〉なんですが、
ですから、今節のアルウィンは、
切羽詰まった者と、飄々と自己流を貫く者との闘い、とも言えてしまう。
このことに、アルウィンが気づいたなら、必ずや、チームを力づけられのに……。
では。