逃走心に,感謝せよ。

家人が、左手を傷め、蟻ケ崎まで通院することとなり、運転手を仰せつかった日。

千歳橋を渡り、大名町を突き当たって左折すると、

通りが、スッキリと拡幅されていた。

ホテル末廣館や、二の丸食堂はとうに消え失せ、

ああいった風情は、僕らの記憶からさえ、早晩消失するだろう。

― 新しい博物館はどこなの?、と訊かれ、

― さっき通った、植田鰹節屋の南、昔の市営駐車場のところ。

― で、いま、松本城を、特別にライトアップする催しやっているみたい。
広報の表紙にあったやつ。

― あぁ、戦国絵巻を城壁に写す、あれって、ほぼ実写なんだ。

しかし。

おおよそ実戦経験と無縁な松本城に、

いくさ絵巻を映写するなんてのは、最たる皮肉、いわば歴史の捏造。

……1550年、武田氏による信濃侵攻に際し、藩主 小笠原 長時は、さっさと逃走、

侵略者の武田軍は、あるじなき深志城を素通り、そのまま北進していった。

もしも抗戦してたなら、あの城が無傷であるはずもなかった。

もともとが、天守(1504年築城)は、シンボリックな存在。

深志城は政務所で、武闘を意図した林城の支城の格。

竹田軍には、埴原、林、井川の城(砦)では激しく?応戦したんだろうが、いずれも、陥落し、破壊された(とされる)。

つまり。

現在、この街が、あの城でいろいろと商売できるのは、

ひとえに小笠原氏の〈逃げたい心〉のおかげであるから、その軟弱さを責めてはならぬ。

ゆえに、万が一、

山雅の祝勝会を、この城を背景にして挙行するとしたら、

それこそ、歴史の無智にもとづく愚行であって、

もし、やりたければ、

〈闘争心〉の残骸、いまでは、瓦礫さえ散逸した埴原城址を選ぶなら、

5世紀過去の、つわものどもが夢の跡の風情が、まっこと真に迫るのではあるまいか。

では。