沼津戦の敗北から、僕は、いろいろと学ぶものがあった。
ひとつ。
以前から、〈幸福〉は、人生の目的には成りえない、と思っている。
― 与えられた処で生きてみて、結果、気がついたら、肯定しうる人生だった。
そんな感慨を〈幸福〉と呼ぶのであるなら、それはあくまで、結果のひとつに過ぎない。
おなじように。
〈昇格〉を、クラブ(のやるサッカー) の目的にすることはできない。
つまり、〈昇格〉(戦う場)そのものを、クラブの存続と価値と、同じ天秤にかけることは間違っている。
せいぜい。
参戦ステージで頂点に立つ、または、より上位の戦績を残す、そのために戦う、これが目標でしょう。
ここをはき違えると、クラブ愛も、狭量、浅薄、貧困、騒々しくなってやり切れぬ。
いや。
果たして、そこに愛はあるんか?、みたいな、寒々しい世界にならないか。
ま、誰だって、昇格だけのためにアルウィンやアウェイに足を向けはしないから、釈迦に説法ですが……。
ふたつ。
〈完敗〉と評したのは、ボールを自分流に動かす局面で、おおかた沼津が優位に立っていたからで、
ひとによっては、これを、球際で劣勢、ボールを握れず、とも表現するらしい。
あるいは、しゃにむにボールにアタックすることを、〈泥臭い〉とかいって称揚する。
では、なぜ優位に立てなかったのか?
気持ち、気迫が、足りませんでした?
まさか。(相撲の立ち合いでもあるまいし)
沼津戦で、球際で負けた、とするなら、
それは、相手のほうが数段に、やるべきことへの集中と献身(=規律) において優れていたために相違ない。
なすべき一連のプレイが明確に意思統一されていれば、
それに備えながら、要は、次のプレイを想定しつつ素早く態勢に入るから先手を獲れるのであり、
ひたすら相手を止めるためのボールへの寄せは、すでに、その時点で後手を踏んでいる。
単にどちらに気力があるかどうか、といった、安っぽい精神論の次元でないことだけは、確か。
その点は、引き続き、レビュウ❸で。
では。