贅沢にも,いろいろあって。

贅沢は敵、などとは、決して思わない。
(そういう世代は、もう多くはお墓に入ってしまった)

ただし。

あくまで、神がゆるし給う範囲内で、ヒトはそれを楽しむべきだろう。

とにかく、自分の分限をわきまえていないと、何事にも、洗練さが伴いません。

ご幼少、たしか、保育園の頃、聞かされた紙芝居。

ひとりの子供が、果実だと、味わうにどれがいちばん優れているかと、思案している。

あれは、皮を剥かないと、これは、タネを吐き出さないと……、

そうだ、無花果(いちじく) ならば、獲ってそのまま食べられるぞ、だから、いちじくが、いちばんだ!!

これが、実物を知る以前の、我が人生における無花果とのなれそめ。

庭の端、隣家との境に、いちじくを植えてから、(たぶん) 10年。

いまや、(おそらく) 数百の実をつけるようになって、その甘味に惹かれては、野鳥、クバンバチ、スズメバチ、コバエが、さかんに集ってくる。

自然をリスペクトする僕ゆえに、

彼らを避けて、かつ、高いところに成っているのは諦め、
朝夕、葉陰から熟れたやつを、ひとつ、ふたつ捥ぐと、

そっと割っては、そのまま口にふくんで、柔らかな果肉を楽しんでいる。

はて?

旧約聖書の、イヴとアダムが食した、命の樹の実とは、一体何だったのか。

具体的な樹木名は、記されていない。

この際、無花果でもいいや、などと、秋の空を見上げてはいるけれど、

これって、かなり贅沢な時間なんだろうな、と思う。

では。