吾亦紅、と書いて、〈われもこう〉と読ます。
秋の日に、桑ズミにも似たその花が、風に揺れている……。
自分もこうなりたい、というネーミングは洒落ているが、
果たして、そのお方、どうなりたかったのか知らん?
宮沢 賢治 (1896 ~ 1933 ) の死後、遺品の中、見つかった手帳に記されたメモのひとつに、
雨ニモマケズ、風ニモマケズ、で始まる、30行が在った。
この冒頭だけで、読む者を惹きつける賢治は、やはり言葉の達人。
けれど、案外、多くの人は、30行の終りまでを読んだことがないのでは?
であるなら、どこかで立ち止まって読むのも、ムダにはなりません。
僕は、その一節の、
イツモ シズカ二 ワラッテヰル、が気に入っている。
ただし。
これは、決して〈詩〉ではない。
理由は、作者が、詩として発表するつもりのなかったこと、これに尽きます。
賢治の詩に触れればすぐにわかるけれど、これを詩と認めないのが、賢治。
せいぜい、自分はこう生きたい、と書き流してみた、そんな記事です。
けれど、たとえ、
実際の賢治が、こういうふうに生きたかったとしても、
作者の生活態度と、その詩作品の価値とは、なんら関係のないのが、文芸のいいところ。
読む側が〈詩〉と思えば、それでいいだろう、って?
言葉による、気の効いた、斬新な発想や感覚の羅列。
いやいや、詩とは、それ以上のもの。
つまり、この世界を観る〈こころざし〉といったもの(補足しました)が、詠み込まれていなければなりません。
では。