加担者が名乗り出ない。

朝から、疲弊した草花に水やりをしている萬年ですが、

まったく炎暑だった8月が、終わろうとしている。

1945.8.15 という重い転回点があったから、

今月は、大戦にまつわる話が聞こえてくるのが、この国のならわし。

戦没した方々の霊を慰める集会も、いぜん続いていて、今や、参列者の平均年齢は、70代らしい。
多く、当事者の、息子娘の世代なんだろうか。

こういう折、式典に、勤勉に顔を出しては、

箸にも棒にもかからぬような、空疎な慰霊文を読み上げる御方には、ホントに頭が下がる。

こういう苦行を淡々とこなすには、聡明と、よほどの忍耐心を要します。

思うに。

語るほうにも、聞く方にも、あたりさわりのないお言葉、これが重宝されて、そして、それでその場を済ましてしまうのが、私たちの美徳なのだ。

海の向こうに出て行っておおく他国を荒したけれど、同時に、使わなくても済んだ殺傷爆弾で無益な被害を被った。

……と、どこかでは言っているはずなんだが、場所と言葉を使い分ける術は、一級です。

年を追うごと。

古い世代が、おおかた死に絶えている事情もあって、

俺があの戦争を起こした、そこに加担した、先導した、という発言がほとんど聞かれなくなり、

自分は、周囲の者は、ただただ辛酸をなめた被害者、あるいは、悲惨な光景の目撃者、そんな話につき合わされるのには、うんざりだ。

みずから戦闘機を駆って、そのまま敵艦に突入する〈特攻〉についても、あたら若い命を……、といった語り口。

戦いがすすみ、練達のパイロットが多く落命していって、

技量の低下が著しいのが背景にあったとしても、あの戦法は、かなり生産性の低い悪手。

それに、搭乗者は結局、(同じように徴兵された)敵国兵士の殺害を目的としているのだから、悲劇が、こっちの専売特許でもなし。

長ずれば、兵隊になって、天皇陛下バンザイで死ぬのだと教育され、それを信じ込んでいた自分(それを責めてはいません) についてはダンマリで、ただただ被害者ヅラするのは、フェアじゃあないですよ。

敗戦の直後に書かれた、伊丹 万作 (1902~1946年)の著作には、

― このたびの戦争遂行について、自分はだまされたのだ、と言う者ばかりで、だましたと名乗り出る者は皆無である。
が、そうじゃあ、あるまい。
日本人全体が、新聞、ラジオ報道の愚劣からはじまって、町会、隣組、警防団、婦人会といった民間の組織は、自主的に熱心にダマす側に協力していたではないか

―とあるが、どうも、そういった反省がうやむやにされたまま、こんにちまで来ている、と思ったほうがよさそうだ。

話はかなり飛躍しますが、

いまだにところかまわず、たとえひとり乗車の運転席でも、マスク着用、なんていう情景をみると、

こういう思考停止、自省の無さ、無批判が、戦争遂行にとって、いちばんありがたいことだろうなぁ、と思う、きのう今日。

では。