…などと、呑気なことを言っている初秋。
けれど、この季節になれば、かならず、
どこかでだれかが、先の戦争(1941~1945年)について語るならわし。
300万人の日本人が命を奪われたんだから、それも当たり前だろうが、
あれから、時もずいぶん経って、敗戦時にぎりぎり成人になった者は、生きていて 98歳。
10歳だったら、88歳。
要は、戦争を始めたり、旗振りをした者、参戦し得た者は、ほぼ全員が死に絶えてしまった。
正直言うと、
物心ついていなかったから、生れてないから、俺は知らん、を平気で押し通せる時代がやって来ている、と僕は考えている。
そして、どうしてああなっちゃったんだ?、と責めたくなる行動や態度が、テーマが違っても、今の日本には山ほどある、それが僕らの出発点だ。
自分たちの愚行を棚にあげておいて、過去を一方的に断罪もできません。
戦争、について言うなら、
人類史上、戦争は常在のことがらであるし、
日本のまわりには、油断のならない国家だらけ、という発想でなければならず、
核による被爆を専売事項にして、だからこそ我ら平和について発信すべき者、などといったオカシな自己規定は、もうやめることだ。
かりに、被爆国というならば、それを二度まで投下した米国に対する責任追及がどこかに飛んでしまっているような議論は、いくらやったところで死者は浮かばれない。
日本が戦争を起こしたことが、当然の帰結として日本への核兵器使用になったわけでは全くなかった、ということを、忘れてもらっては困る。
このいくさについては、過去一年だと、
伊丹万作(1900~1946、映画監督) による『戦争責任者の問題』(1946年8月発表)が、興味深く読めた。
短文ですし、青空文庫でもタダで読めますよ。
では。