探し物をしていた二階で、たまたま見つけたのが、黒田 三郎 (1919~1980年) の詩集。
我が身には、購った記憶がなかったので、後で息子に訊くと、
僕のやつだよ、確か、父に勧められたんじゃあないかな?
ほほぉ、そうでしたか。
たわむれに、並んでいる詩のタイトルをすこし、書き出してみたら……、
美しい日没
月給取り奴
しずかな朝
夕方の三十分
九月の風
顔のなかのひとつ
夕焼け
僕を責めるものは
洗濯
秋の日の午後三時
夕暮れの町が
小さなあまりに小さな ※詩集〈小さなユリと〉(全篇)
これだけでも、この詩人の在り様があらわになるけれど、
その詩風は、後世にけっこう影響してるんだ、と気づかされた。
黒田 三郎は、詩論(『詩人とことば』) の中で、
……北原白秋の詩からはことばの感覚的な美しさを除くと、何にも残らないような気がする。……
と書いている。
詩中で使う言葉に、過重な陰影を与えることをとことん嫌う黒田らしいなぁ、と思う。
けれど、言語表現に手が込んでいようと、あるいは、平明であろうと、
詩を読み終わったところから、読み手の中で何かが生まれ、行動が新たになること、そんな変化を起こさない作物は、
いまの僕にとっては、〈詩〉とは呼べない。
だから、黒田 三郎の詩は、いつしか僕を満たさなくなった。
同じように、洒落た表現には出合えるものの、小さな感覚世界に閉じこもりたい、短歌という作物、もそう。
馬鈴薯の花咲き穂麦あからみぬあひびきのごと岡をのぼれば (白秋)
これぞプロフェッショナル、と呼びたいくらいに、たしかに巧いんですけどね。
では。