復讐するは我にあり?

天皇杯県予選ファイナルの夜だったか、

京子さんから、家人にメールがあった。

具体的な文面は忘れてしまったけれど、

大野 佑哉(元山雅戦士) への不評が記され、ますますパルセイロが嫌いになった、と結ばれていた。

京子さんにしてみたら、パルセイロを好きになるつもりもないのだから、ますます嫌いでいられる出来事が起こって、これ幸い、と喜んだらいいのに。

そこら辺のやりとりは、僕の見聞にも否応なく入ってくるし、天皇杯では大野に盛大なbooが浴びせられていた。

が、そういうのには、醒めた、外野の身分で居るのが、自分を害さずに済む。

十二使徒であったパウロがみづから書いた書簡と伝わっている、新約聖書『ローマ人への手紙』第12章19節。(文語訳)

― 愛する者よ、自ら復讐すな、ただ神の怒りに任せまつれ。
録して『主いひ給ふ、復讐するは我にあり、我これに報いん』とあり。

〈意訳〉☞ 愛するローマのクリスチャンよ、あなた自らが仇に復讐をおこなってはならない。
書には、『復讐する者は、神である私の務め。あなたを害する者には、私が報いを与えよう』とある。

聖書の教えによれば、人を裁くのは人の仕事ではないのだから、それは、天の御方に任せておいて、あなたは、ひたすら、

悪に勝たるることなく、善をもて悪に勝て (21節)。

ピッチで行われることは、いかに真剣勝負であろうと〈プレイ〉であって、それにまつわるもろもろも、どこかに遊び心を宿さないと見苦しくなる。

だから、5/13夜の、望み。

山雅を取り巻く人々は、せいぜいマジメに遊び倒す気持ちを込めて、迫力と結束に満ちた声援と、応援を送ろう。

なんだ、お前、と思ったら、不興の声を浴びせることを僕はちっとも否定しませんが、ただし、それ相応な言い方、ってものがあるだろう。

ウイットと洗練。

それこそ、山雅の魅力、でありたい。

では。