二葉亭 四迷 (ふたばてい しめい 1864~1909)という作家がいた。
僕からすると、四迷こそ、日本の、近代〈小説〉のドアを開けた先駆者であって、
彼の目指した方向へとそのまま小説手法が進んでいたらおそらく、日本文学は、もっと豊饒な産物を持ち得たのではないか、と考えている。
作品を世に出すにあたり、まったくの無名であったがために、師と仰ぐ坪内 逍遥(つぼうち しょうよう 1859~1935)の名を借りてまでして、稿料を得る。
そんな奴は、くたばってしまえ、と自分を卑下したことから、その筆名を考えたなんてのは、人を喰っていて、すがすがしい。
8歳からおぼえた喫煙の習慣を、亡くなる前年(45歳) になってやめた、といったエピソードも好きだなぁ。
(最後は、朝日新聞露西亜特派員として、ロシアに渡航、その地で肺結核が悪化、帰途、ベンガル湾洋上にて客死した)
さて、四迷の『予が半生の懺悔』(1908年発表) の中に、こうある。
(前略) 其の結果、将来日本の深憂大患となるのはロシアに極まってる。こいつ今のうちにどうにか禦(ふせ)いで置かなきゃいかんわい ― それにはロシア語が一番必要だ。と、まあ、こんな考からして外国語学校(註:東京外国語大学の前身) の露語科に入学することになった。
元来自分が持っていた維新の志士的な心情が、〈樺太千島交換事件〉を契機に盛り上がったロシア排撃論に刺激される格好で愛国心が湧いた、と四迷は記しているが、
始まりは、煽られたナショナリズムだったとは言え、
すぐにロシア語の習得へと人生を転回するところに、リアリスト四迷の面目があった。
敵を叩くには、まづ、敵をよく知れ、という当たり前のスタート。
でも、こういった、研究心旺盛な姿勢は、それから半世紀もすると、日本のエリートからは消滅してしまった。
米国が、徹底的に日本を、その文化に至るまで調べ上げ、軍事作戦を遂行したのとは反対に、日本では、相手国の文化を一切禁制にするという愚劣さ。
そして現在は、果たしてどうなんだろう?
ひたすら露国を、快不快、好悪のレベルで見下したところで、リアリスティックな対処はできるはずもない。
では。