問) 強いチームだから、愛される?
問) 誰から愛されることを願う?
問) 結果を出せないチームだから、人は去る?
こむずかしい議論はさておき、
早い話が、松本の街に在るチームだから、これを愛す。
ある方の賀状に、
― 山雅は残念でしたね、でも毎週末が楽しみ、とあった。
ここらへんが、出発点。
であれば、たとえ、企業経営であっても、そこには、ファン&サポーター、市民に開放されて、共有される部分、いわば、クラブが聴く耳を持ってもらいたい、という要求はあるだろう。
ただし、実際にパフォーマンス(資金投下、競技のすべて)する側と、(一緒に闘うとは言うものの) 観る側の視点を、同一なレヴェルに合致させることに、特に、クラブ(=チーム)が汲々とする必要など、ありはしまい。
(前の記事における) 発信者と受容者の視点は別物、とはこのこと。
その例えが、ハードワークと規律性。
かつては、そういった志向性がチームに必須で、しかも、成果を挙げ得た(と思われる)としても、
今そこにある山雅に、果たして無条件に求められるものなのかどうか、だ。
チームみづからが、戦略的に必要としているのかどうか、だ。
このふたつともは、あくまで、おのれのサッカーをマットウするため使うこと、人に見せるためのものにあらず。
手段と目的を混同してもらっては困る。
(力を出し惜しみしたり、融和しない気風が散見された、といった内部事情があるなら、また別の話)
なかなか勝利できない状況下、外部からの、昔はああだったのに、といった先祖返りの声に、安易に同調したところで、なんになろう。
負ければ敗退の一発勝負は、高校選手権に任せておけばいい。
プロチームとして、年間30数試合のリーグ戦をモノにしようとしているのだから、それを切り抜ける中、勝つ、負ける、あるいは、引き分けで勝ち点を積む、そこに集中しないでどうする?
昨季、足りなかったのは、単に、強い弱い、に解消できないような、
各ゲームの位置づけ(必勝なのか?、最悪捨てゲームにするのか?) と、勝つための工夫、巧妙さ、そんなものだった、と僕は診ている。
それができるチームこそが強い、と言われてしまえば、それまでですがね。
では。