その年代の子を持っていないので、目的や、詳細なプログラムは知らない。
が、現在、〈英語〉(英語? or 米語?)は、小学生から必修の科目らしい。
児童諸君には、この科目をなんとか好きになってもらいたいが、
こと外国語については、否応なしに使わざるを得ない環境に投げ出されないと、駆使できるようにはならない。
この国に生活する限り、不幸にしてそういう環境に曝されるのは、100人にひとりも居ないだろう。
なので、日本の街角で、日本人が当たり前のように英語を操っている光景は、幸せなことに、これから100年経っても、おそらく出現はしない。
どうしても、そういう世界を求めたいならば、
そうだな。
高校生より上級の、日本語を除いた教科はすべて、英語を母国語とする教師を雇い入れて、英語オンリーで教えるくらいにしないと無理な話。
つまり、明治初頭の、旧制大学の授業を再現すれば、万事よろしいかと。
これを暴論と言うのなら、将来、ほとんど(日常会話として)使わない外国語の習得に、幼い子のエネルギーを、それも世代全体で大量に、費消させることのほうが、よっぽど、乱暴な話ではないか。
『More Than I Can Say』は、バディー ホリイ(1936~1959)が、生前準備していたが、急逝。
残されたバンド クリケッツが、バディーの死後 1960年に発表した曲。
歌詞は、こう始まって、それが繰り返される。
I love you more than I can say
I’ll love you twice as much tomorrow ……
比較級の表現を覚えて、辞書を片手に、こういう秀歌を楽しむ。
〈英語〉教育の目的は、そのくらいにするのが、身のため世のためだと思うんです。
僕はこの曲を、柳ジョージの (泣ける!) 歌唱で知った。
けれど、こういうのも、なかなか味わいがある。
では。