そもそも、サッカースタイルについての、議論のはじめ。
ボールを動かすことに(客観/主観で) 長けていれば、より長い時間ボールを握るサッカーを、チームとして目指すに違いない。
こっちがボールを持っている限り、相手は攻撃に出られないわけだから。
さらには、敢えてボールをイーヴンにするような空中などでの競合戦も避けるだろう。
そうする技量に乏しいから、初動態勢としてボール保持は捨ておき、守備からボールを奪取することを狙い、一閃反転攻撃を仕掛ける。
それが、ひと昔前、しんがりからJリーグにやって来た山雅が、採らざるを得ない戦法だった。
そのために、ボールホルダーに振り回されてもへこたれない走力と、奪うための、球際に厳しいスタイルが導入された。
アルウィンでは、そういう情景をおおく観ながら、10年が経過。
さて、今。
山雅(力量)の現在地を測ったときに、果たして、こういうサッカーが選択されるべきかどうか?
そこら辺の議論から組み立てないと、スタイル論は、おかしな方向へ行く。
実際フタを開けてみなければわからいない。
けれど、はじめから、過去のサッカースタイルの全受容ありき、でいいのか?
たしかに、絶対昇格、といった尻に火が付く緊急的な欲求はあるにせよ、
もっと自由、闊達に、現有および新しいタレントを活かすような、新スタイルを掲げないと、せっかくの監督交代に価値もあったもんじゃない。
さて、この記事のタイトルは、聖書、ルカ傳第5章38節からの引用。
この直前で、キリストは、
― 誰も新しい葡萄酒を古い革袋に入れたりはしない、もしそうしたなら、葡萄酒は革袋を裂いて漏れ出し、革袋もダメになるだろう、と言っている。
山雅の〈のれん〉= サッカースタイル、という乱暴なロジックで、すべてが語られてしまうと話にならないのでは?
堅守、速攻を、我がチームの専売特許と思うのは、時代錯誤ですよ。
では。