要は 義理を感じるか。

   女房と    相談をして    義理を欠き

『柳多留』に収められた川柳。

ここでいう義理とは、おそらくは葬儀の参列とか、香典にかかわることだろう。

江戸時代のつきあいも、今とそんなに変わらない感がありますよね。

妻のほうがずっと、渡世に関するリアリストであることを暗示するところに、句の妙味があるわけです。

誰の葬式であっても、そして喪主が誰であろうと、いそいそと出かけて行ったり、ココロを向けたりするのは、結局は、亡くなった御方等に義理や恩義を感じているかどうか、の一点に尽きる。

(もちろん、参列することで社会的な体裁を保とうとすることもはなはだ多い)

国葬に関して、やれその法的根拠がどうのこうのと言うが、政権を執る者(世間のトップ)がやるというのなら、やってもかまわない。

そもそも法的根拠を持ち出す側は、反対派なんだし。

今度のことでいろいろと揉めてる本質は、

自分でその地位になりたくてなって、そして、最期がたまたま畳の上でなかったというだけで、これを国を挙げた形式で弔うことについて、それが本然とは感じられない、腑に落ちない、それだけのことではないか。

だから、その器や功績をあげつらってみても、その周囲で起こったダーティーな側面で反論されるだけのことで、議論がかみあうはずもない。

呆れるのは、海外のほうがその政治的功績を評価しているとまで言い出すマヌケがいること。
これ、外国人を持ち出して来て、要は、クールジャパンを宣伝したい手法とそう変わらない思考回路。

弔うのはかまわないけれど、義理の強要は勘弁してよ、というのがおおかたの正直な感想。

僕の場合など、日本武道館、と聞いてだけで、あ、これは自分には無関係だわ、と独り決め。

結論。

国葬に値するかの基準など、いまの日本では、おそらくは策定不能だと思う。

国旗を揚げて祝ったり、弔ったりすることの規範を、80年近くかけて否定し続けて来たのは、他でもない僕たち日本人なんだから。

やりたければやればいい、こっちはこっちで、勝手に自分の腑に落とすから、というのが今の日本大衆のニヒリズム。

もしも、戦争に行けという動員令がかかったら、このニヒリズムはその時、どう反応するんでしょう?

真価が問われるとしたら、そうした場合でしょう。

では。