2022年 2月 22日。
今月生まれの僕からすると、この数字の並びはなかなか味わい深い。
グレゴリオ暦、つまり、今使っている西暦だと、これ以上に 2が並ぶのは、ちょうど200年後の今日しかないわけか、と考えたりしている。
幼児が家に来たら、一緒に遊ぶのが、僕へのアサイメント(割当て)。
先日は、こむぎねんど、を持ってやって来た。
未開封なので訊くと、彼としては、はじめて取りかかるものらしい。
ならばなにごとも最初が大事と、一緒に袋から出して、こねくり回して遊んでいた。
こういう時、遊んでやる、といった傲慢さはご法度。
こちらも一途に、没頭しなくてはいけません。
遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ、遊ぶ子どもの声聞けば、我が身さえこそ揺るがるれ、―と、出まかせに呟きながらもよろしい、かと。
『梁塵秘抄』(1180年頃の成立)に収められた、当時の流行り歌のひとつ。
どんな節をつけて唄っていたんでしょうか?
遊びをせんとや、と疑問文であるから、この私、遊ぶために、戯れるために生きているのでしょうか?、となる。
たかが流行歌とはいえ、言外には、なかなか深い哲学的な思慮が込められていると思いませんか?
そういった感慨が、後白河法皇 (1127~1192年)をして、この歌を拾わせた、と思います。
時代背景でいうと、梁塵秘抄が編まれたのは、1181年には平 清盛が病死していて、平家政権にかげりが見え始めた頃。
次の時代へと動き始める不安感が、世の中に在ったとしたら、一見戯れ唄に見えるこういった一節にも重い意味を感じたくはなります。
で、こんなものをこしらえて、これは、地球がいくつかで、これは金星、とか話してやると、じゃあ日本はどこにあるの?、とか訊いてくるから、ここあたりかなぁ、とか適当に応えているのでした。
ならば、スイ、キン、チ、カ、モク、ドッ、テン、カイ、メイ、とか拍子をつけて太陽系の話をしようか、と思ったが、これはまだチト早いか、と思いやめにしておいた。
では。