〈ヤラセ〉という捏造(デッチあげ)の問題が起こるたんび、槍玉にあがったメディアの言いわけは、誤解を与えるような〈過剰な演出〉がありました、が決まり文句だ。
これって、演出がかならず在ることを認めているんだが、では、どのくらいやれば過剰となるのか? が示されたためしがない。
観る側にしたところで、事前にいろいろと打ち合わせがあって、不都合な映像や言動はカットされてんだろうぐらいに思っているから、あたかも実際そのままのように見せた〈嘘〉を、発信側と受信側の双方が楽しんでいる、と済ませてしまうのが賢明に思われる。
だいたいが、カメラを従えた若いのが、「NHKですが……」と突然玄関先に現われたら、やぁ、これは、これは、いつもお世話になります、とウエルカムするはずがない。
これだけダマシのテクニックが、周囲に転がっている当世だというのに。
あとひとつ。
主にニュース番組などで、街頭でマイクを突きつけられて意見を求められるシーン。
街の声を聞きました、とか前置きが入るやつだ。
あれこそ、メディアによる、巧妙な、出来事/事件/事故についての心象操作に違いない。
素人が、素人なりに感じていることが暗示され、そこには切り捨てられたさまざまな意見があったことなど、考える間もなく過ぎ去るしくみになっている。
そもそも制作側が望む意見が採用されるに決まっているんだろうし、街の声こそ要らないわ、といつも思う。
そうか、そういう考えもあるのか!、とハッとする意見になど、お目にかかったことないでしょう?
人の命が傷つけられた凶悪な犯罪が起こると、近隣の住人と但し書きされた、胸から下だけが映り、時々見かけたけれど、ふつうに挨拶する人でしたよ、とか喋っている。
そりゃ、そうでしょうよ、たいして関心もない他人だったんだろうし、犯罪者だって挨拶はするだろうし。
何時こういうことが起こってもおかしくない、とあたしゃ思ってましたよ、というインタビュウに是非お目にかかりたいものだ。
でもね最近、ついにやったか、やっぱりねぇ、といった人殺しの未遂事件がありまして、また別の機会にご紹介します。
では。