とてもできそうにない 覚悟。


大腸がんで逝った、さる高齢の男性に関する、家人から仕入れた話。

病状もかなり末期になり、ご家族の手に負えなくなって、訪問介護を利用するようになった。
この御方、お世話するようになって、一週間くらいで亡くなったそうな。

排便処置が主なサーヴィスになるが、一日6回の訪問、おそらくは全身の臓器が侵されてもいるので、浮腫みも来て壮絶だったんだろう、と萬年は推測する。

実は、すこし前に、思い余った家族が救急車を呼んだことがあった。
けれど、この男性、どうしても自宅で死ぬんだと言い張って、頑として搬送されるのを拒んだという。

で、その言葉とおりに、ご自宅で最期を迎えた。

この話を聞いて、なんとまぁ意志強固なことか、と感嘆してしまった。

萬年ならば、七転八倒の痛みの中では、もうどうにでもしておくれ、となるに決まっている。
歯医者にかかる時でさえ、痛くさえなければなんでもして下さい、なのだから。
先日も、抜歯後数時間止血しなくて、ぐたぐたと言っておった。

疼痛と死が接近したら、ドクターの治療を拒む元気も残っちゃいまいな、きっと。

多くの人に訪れるだろうこの試練。

その際、どれだけ意志力にモノを言わせられるのか?

こと自分については、まったく自信のカケラもない萬年だ。

では。

〈コメント〉
☞つーさん より (9/7 15:45)
不満足な生と、不満足な死。どちらも辛いね
病気で亡くなる人のほとんどは、死を迎える数時間あるいは数日前から意識が無くなると言うから、本人は自分の死の瞬間を意識する事は出来ないらしい。死に際まで「おれは死にたくない」なんて叫ばれたら、家族は堪らないだろう。
それにしても、訪問介護の人も末期ガン患者を最後まで世話するのは、仕事とは言え大変なことですね。
普通、それだけ悪くなれば病院なり緩和ケアの施設に入り、そこで死を迎えるだろうが、自宅にいたい気持もわかる気はします。
しかし、家族としては病院で、あるいはケア施設で、治らないと解っていても痛みを抑える処置とか兎に角何かをしてほしいと望むものです。
身内が死を迎える時、その家族は本当に辛い。この病院で良かったのか、もっと何かしてやれなかったものか、何度も思い悩むものです。死までの時間を自宅で過ごすのは、家族に心身共に大変な負担をかけると解っているが、身内の苦労を忖度して大人しく病院に入り、静かにその時を迎えるなんて気遣いは死んで行く身としてはとても出来ないだろう。
満足と言える生さへ生きていない自分が、もう死を身近に感じる歳に来ている。せめて残された者に迷惑かけぬよう、持ち物の整理くらいしておこうか。
では、また。

☞萬年より (9/7 16:24)
或る人は、人生とは、死に至る病である、と言っています。
誕生の瞬間から、最期に向かって時間が刻まれ、また、悩みのない生活などどこにもないのだから、そういう表現も成り立ちますね。
となると、その病というのは、一生かけて毎日毎日積み重ねる、死への準備、ということか……。