かつて、知り合った米国人が言った。
―ユダヤ人の子はその賢さで、学校の教師をやり込めて困らせるのが、アメリカ社会に在る、ユダヤ人のイメージなんだ。
非ユダヤ系からの、多分に人種的な決めつけにも思われた。
アルベルト アインシュタイン (1879~1955) がそういう個性であったのかは知らないけれど、その名を聞くと、この話が思いだされて仕方ない。
彼には、まったくそうだよなぁ、と同感させられる言葉がある。曰く、
―調べられることを、いちいち憶えておく必要はない。
大切なのは、その情報や知識はどこへ行けば、どのようにすれば獲られるかを習得しておくこと。
けれど、悲しいかな。
萬年の小中高時代、成績の基準は、調べればわかるようなことをどれだけ憶えているかどうか、それに終始していたように思う。
いわゆる知識の多寡と、記憶力に優れることを良しとする教育ですな。
知的な興味が向けば、特定の分野に関する知識は増すのが自然。
けれど、それだけを尺度とする学業評価は個人の持つ可能性を多く見逃す。
なぜ、そういう教育になってしまうのか?
理由は簡単だ。
教師にとって、知識の一方的な伝達がもっとも楽な教授法であり、自己の権威を保てるから。
では。
〈コメント〉
☞つーさんより (7/1 6:51)
風が吹けば桶屋が儲かる。
遠い記憶の中に「勉強は他人の気持ちが解る人間になるためにする
大人になって、人間関係や仕事の段取りなど困難に直面した時、柔
人生をあまり上手く渡れていない私としては、もっと勉強しておく
では、また。
☞萬年より (7/1 17:50)
学校は、いつかは去るもの。
大人になって〈勉強します〉と言ったら、商店主の値引きの言葉。
ま、それも、他人の気持ちを窺うことには違いないですね。